時代の変り目
洛友会会報 200号


時代の変り目

森井清二 (昭和24年卒)

 私が洛友会関西支部長を務めていたのは、平成3年(21世紀が始まる丁度10年前の1991年)6月から平成5年6月迄の2ヶ年である。今日、日本のバブル崩壊は平成2年から始まったと言われているが、当時大方の人は確かに株価は急落し、地価も下がってきているものの、これは一時的な調整局面で、ベストセラーになった渡辺昇一さんの「日はまだ昇る」に書かれているように、日本の技術力は底強いものを持っているので、少しの間我慢していれば、また、経済は上昇に転じると信じていた。現実はこれと裏腹で、この時期から株価・地価共に一方的に下がり続け、今日ピーク時の四分の一、三分の一となり、産業の空洞化・IT不況も重なって、深刻なデフレから脱出する目途のたたない閉塞の時代を迎えている。その予想が外れた原因の一つはこの時期に世界情勢が大転換したからである。平成3年から4年にかけて、それを象徴する大事件が立て続けに三つ起こっている。時系列的に言うと「湾岸戦争の勃発」「ソ連邦の崩壊」「地球サミットの開催」であるが、影響の大きさから言えば先ず第一にソ連邦の崩壊を取り上げねばならない。ソ連邦保守派のクーデター失敗から始まって、ゴルバチョフを救出したエリツェンが台頭し、ソ連共産党は解体、バルト3国が独立した。これを契機に既に始まっていた東欧諸国の脱共産化に拍車がかかると共に、中央アジアの諸国も相継いで独立し始めた。また、中国にも多大のインパクトを与える事となった。中国は天安門事件以来一時搶ャ平に対する批判が強まり、改革解放路線も足踏み状態にあったが、ソ連邦の解体によって唯一の社会主義大国として孤立感を深めた所へ、後述する湾岸戦争での圧倒的な米国軍事力に衝撃を受けた搶ャ平の反撃が奏功して、平成4年10月の第14回党大会に於て「社会主義市場経済の確立」「改革解放の加速」「科学技術の振興」等を柱とする方針が固まった。その結果、世界の自由経済市場の規模が一挙に倍増し、極言すればそれ迄資本主義と社会主義の二つの陣営に分かれ、一物二価でないにしても、一物多価でバランスしていた時代から全世界が一物一価の時代に変わった事になる。次に湾岸戦争についてであるが、現在のイランは英国が第一次世界大戦の戦後処理として、オスマントルコを解体して作った国であるとは言えその根は深い。民族宗教の対立の上に世界のエネルギー源が石油に依存する様になってから、英、佛、露等諸国の利権がからまり、その時々の利害により昨日の敵は今日の友となる複雑な様相を呈し、我々には簡単に理解出来ない地域の出来事である。しかし、この戦争で素人眼にもはっきり判った事が二つある。一つは米国が世界で唯一、地球上の如何なる地域の紛争にも介入し得る軍事力を持っていると言う事であり、もう一つはハイテク戦争と言う全く新しい戦争様式が出現した事である。第二次世界大戦に於て大艦巨砲の時代から航空機の時代に移り、核兵器の出現によって戦争様式が一変したが、湾岸戦争に於ては空が宇宙に拡がり、スパイ衛星を含む探査能力と誘導兵器の精度が勝敗を左右する時代となった。
 地球サミットは1972年に開かれた国連レベルでの最初の国際会議「ストックホルム国連人間環境会議」の20周年の節目として、リオデジャネイロで世界176ケ国・機関が参加して開かれた20世紀最大の国際会議である。「環境と開発に関する国際会議」と銘うたれ、持続可能な開発を基本理念とする「リオ宣言」、これを実行に移す行動計画「アジェンダ21」並びに「森林原則」が採択され、「気候変動枠組条約」「生物多様性条約」が署名された。その後の進捗状況を見ていると各国共総論賛成、各論反対の様なケースが多く、前途多難であるが、少なくともこの時以降世界中で政治であれ、経済であれ、あらゆる交渉事が地球環境問題抜きでは語れなくなったのである。
 話は変わるが、洛友会の歴史にも大きな変化があった。
 平成3年2月、鳥飼先生の後を継いで16年の長きに渡り洛友会会長を務め、会の発展と後輩の指導に御尽力頂いた松田先生が御逝去された。先生の闊達な御人柄と先見性、学問に対する情熱は同窓生一同の人生の鏡であり、正に巨星落つの感を深くした。後任は洛友会創立以来、幹事と副会長を務め会長を補佐してこられた大谷先生以外に無かったが、先生は先輩諸氏もおられるのにと遠慮され、会長代行と言う形で御引受け頂いた。平成3年度の総会は大谷先生が副会長の儘会長代行として主催されたが、この席で長年副会長を担務して頂いていた長老の方々が全員顧問に就任されたので、副会長は大谷先生以下4名となった。平成4年度の総会で大谷先生が正式に会長に御就任されたが、この間副会長が御一人亡くなられ副会長は近藤・卯本両先生の御二人のみとなり、補強が是非共必要となった。その結果、平成5年度の総会に於て大谷会長、近藤、卯本、大島、池上副会長と言う新執行体制が誕生したのである。
 関西支部に於いても役員任期の変更があった。
 支部役員任期は各地域の事情でマチマチであったが、関西支部の場合、本部総会が関東・関西と毎年交替で実施され隔年合同総会となる為2年が妥当とされていた様である。然し東京支部も1年であるのと、支部長を2年務めるのは会社としても重荷であるとの意見もあって、近藤副会長・大島前任支部長・藤島次年度支部長と相談の結果、平成5年度藤島支部長の時から役員任期が1年に改定された。
 最後に私事になって恐縮であるが、昭和60年頃、全国九つしかない電力会社の社長ポストを四つ迄洛友会メンバーで占めたことがあった。北陸電力の森本社長、中国電力の松谷社長、四国電力の平井社長、関西電力の私の4名である。その後夫々後進に道をゆずられ、最後に私が辞任したのが平成3年の12月である。この4名で4電力洛友会を作り、毎年1回夫婦同伴2泊3日で各地域の名所旧跡を順番に尋ね交流を深めていたが、昭和60年に北陸から始めて4巡目関西で幕を閉じた。
 メンバーの一人で長年中国支部長を務められた松谷さんは昨年10月永眠された。

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