「もはや戦後ではない」
     から半世紀
洛友会会報 200号


「もはや戦後ではない」から半世紀

秦 祐夫(昭和30年卒)

 戦後の飢えからようやく解放されて東通工(現ソニー)の雑音だらけだが世界初の市販トランジスターラジオや実験室で改造オッシロに写った青いテレビ画像に感激した学生時代が同時に洛友会の誕生のころで半世紀も前の事だとはどうしても思えないところが年齢を受容れたくない潜在意識よと自分のことを棚に上げた友人に笑われるようになってふと思えばもう二十一世紀。
その頃西部食堂で外食券の昼食をとりながら、憧れと反感のいりまじった想いでアメリカの繁栄を語り、あっという間に戦後を終わらせて驚異的な成長を遂げつつあるドイツ経済を論じたりしているうちに卒業就職。
 黎明期にあった工作機械の自動制御にたった一人で取組んでいるうちに研削盤の適応制御に熱中して機械学会賞を貰ったり世界で初めてのロータリーエンジン量産工場建設の総括を任されて夢中になっているうちに、世の中は「貧乏人は麦を食え」となりふり構わぬ高度成長の挙句全地球的な大気汚染とオイルショックのダブルパンチ。
 その頃自動車の電子制御分野に転進していた筆者達に重くのしかかったのは排気浄化と低燃費の同時充足という難題で、世界中の自動車メーカーがこぞって膨大な研究費を投じて得た実用的解決が8ビットCPUを使った電子燃料制御技術で、以来実現手段を持たないままに埋もれていた自動車技術上の様々な夢が新しく手にしたCPUという魔法の杖によって次々と実現していくことになった。
 やがて八十年代も半ばになると電子メーカーの提供する個別制御システムから自動車全体としての統合制御システムへの移行が叫ばれ自動車と電子の両エンジニヤを糾合した組織作りが澎湃として起こり筆者もFMN三社による強力組織作りを提唱し奔走したものである。
時恰も日米電子戦争酣の頃で4メガDRAMをめぐって圧勝していた日本勢の中でも特許紛争をすべて蹴散らして強気な姿勢をとっていたN社がビッグ3の一角F社と手を結びかねない情勢にF社の電子エンジン制御を独占していたMO社が強い危機感を抱き社運を賭けての妨害工作にでたのは当然の成行きであった。
 MO社の活動は凄まじく日刊紙の記事で米国技術の流出を嘆き週刊誌の広告でMO社技術のエンジン制御への貢献を訴え、中でもF社幹部への働きかけは熾烈を極め遂にはオーナーをも動かすに至った。
 水面下の実態はともかくとして表面上はFN両社社長(当時)の対談での行違いということで処理されF社は撤退した。
忘れられないのはその時N社社長の「米国では失業率が4%でも問題ないが日本では1%でも大問題だ」との発言に対しF社社長がしてやったりと激怒してみせたことで、当時の世相と異り5%を越える現在の日本の失業率に今更乍ら今昔の感にたえない。
一方この成功に依存し時代に対応した開発態勢をとらず既得権を貪り続けたMO社は徐々に自動車ビジネスでの力を失って行くことになった。
 F社の撤退に伴ってMN両社は規模を縮小しながらも当初目標通りジョイントベンチャーをたちあげカーエレクトロニクスに新風を吹き込んだが、それも後日かって撤退したF社によって全面買収されることになった。
 もはや時効になってしまった兵どもの夢の一齣ではあったが、一方その後の半導体業界のめまぐるしい変遷を見るにつけ、廃墟からの復興そしてひたすら成長と言った素朴な物作り屋の時代の終焉と利潤追求一辺倒時代の到来への空しさが胸をよぎる想いを禁じえない。
 戦後の終焉と共に始まった私の五十年はそのまま洛友会の五十年と重なるものであったけれど、その間を律した単純でひたむきな行動規範が今や色あせて感じるのは単なる老人の懐古思考に過ぎないだろうかと胸の中に反芻する今日この頃である。

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