北陸支部設立総会の思い出
西村尚和(昭23年卒)
設立総会は昭和29年5月でした。昭和23年に入社した北陸配電は3年後の昭和26年5月にいわゆる電力再編成で北陸電力となり4年目を迎えていました。前年に特別立法で設立された電源開発会社は九電力体制に不満な再々編成派のガス抜きだとかの物騒な噂が流れたりするまだまだ不安定な時期でした。建設部に配属され幾つかの新設水力の計画、施工に関係し無闇に忙しい日々でしたが会場が職場と同じビル内で平日昼間だったので駆り出され末席に座っていました。もちろん最若輩の部類です。当時金沢、福井両大学の教官に何人も同窓生がおられ会社では佐伯光太郎常任監査役(大10年卒)荒井武治工務部長(大12年卒)金井久兵衛副社長(昭5年卒)等の方々が最先輩でした。
随分前になりますが今でもありありと記憶に残ることが二つあります。その第一は総会の行事が終わり懇談に移り大学でもう少し当座の役に立つ実用的具体的な事も教えてはとの話題になった時です。鳥養先生があらたまったご様子で大学における基礎教育とその課程における知的訓練の重要性を力説されいささか座も白ける位でした。工業技術は日進月歩だしその為の大学だから旧制から新制になっても全く考えは変わらない、基礎が身についていればどのような分野でも何時になっても世の中のお役に立てるとの至極当然なお話でした。まことに説得力に充ちた精悍な感じで一回生の時ひどく難解だった積分表示の電磁気学の先生の講義を思い出しました。その頃軍機扱いが解除になって多数の図書が出版された古典的制御論が身近になり演算子法に似て非なる伝達関数等に基礎学力の欠如を充分自覚していましたから身につまされる思いでした。
50年の間に私が見聞した範囲でも様々な工業製品やシステムが出現し消えてゆきました。水銀整流器、カップリレー、PCB絶縁油、油入や空気遮断器、真空管磁気回転増幅器、接点形調節器、交流計算盤、アナログ計算機等々ハード、ソフトを合わせ枚挙に暇が無いほどです。またここ20年ほどは高効率ガスタービン、石炭の加圧燃焼や二次電池、燃料電池、高温超伝導等への過剰な期待に対し願望と予測を客観冷静に識別対応する必要がありました。何時になっても広く堅固な基礎知識、学力が要望される所以です。
その後昭和42年に鳥養先生が林重憲先生とご一緒に北陸へお見えになり荒井支部長のお供をして金沢、安宅、那谷(なた)寺を案内し兼六園の三好庵で昼食、山中温泉吉野家で宿泊しました。鳥養先生は傘寿前後だったと思いますが、とてもお元気で、お三人で料亭や宿の女将達と交わされる洒脱な会話を呆然と聞き惚れていたのを思い出します。
記憶に残る二番目は設立総会の冒頭での金井さんの発言です。北陸支部の所在地は金沢大学内にお願いしたい。、走り使いは何でもしますが支部長を北陸電力に籍のある者からは出せないのでご容赦願いたいと言った内容でした。事前に本部と調整が済んでおり出席者に周知するのが目的だったのか論旨は明快でしたが社外の方には意外の感があったかも知れません。北陸電力の本社は富山市で九電力では例外的に供給地域の最大都市でも地理中心でもありません。有利な水力地点が富山、岐阜北部に多くその安価な電力を求めて昭和初期から需要も富山県に集中していましたから電力の管理中枢を富山に置くのは当時の状況では至極当然でしたがそれだけに石川、福井に細心の配慮が必要だったのでしょう。後年火力、原子力の立地に関るようになって出先で剣突くを食らい厭味を聞くたびに思い起すことがよくありました。
北陸電力在籍者で支部長を仰せ付かったのは荒井さんと私ですが共に電力をやめた後で金井遺訓を辛うじて守ったことになりましょうか。
地域独占、垂直統合と称される九電力体制は関係者の努力とそれなりの合理性もあってか思いの外長持ちして今日に至りました。最近論議されている電力自由化は多年念頭にあった思案の外の理由でしょう。この頃つくづく地球は狭くなったと言うかグローバル化の恐ろしさを感ずることしきりです。
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