趣味とインターネット雑感
前東京支部長
和田 昌美(昭36年卒)
古代史ブーム
高度成長時代の忙しさにまぎれてすっかり忘れかけていたが、6,7年前から新聞の切り抜き癖が復活した。最新情報を手っとり早く知るには大変便利である。しかし、新聞記事は元来一服の清涼剤のようなもので、後々何度も読みかえすほどのものではない。「古代史」という袋に突っこんでおくだけのことであるが、そうしないと何んとなく落ちつかないという感じである。この頃から家内と一緒に神奈川県内の古代史探索グループに顔をだすことにした。現在でも、月に1回程度のペースで、日帰り散策や3,4泊のバスツアーなどを楽しんでいる。長続きしている理由はこの会が一貫して「日本人のルーツを探る」ことにこだわっているからである。相模国の旧跡を歩いていても、話題はいつでも大和・河内や九州・韓半島などを行き来して、これが実に楽しい。
さて、古代史に興味を持ちはじめたのは30年ほど前であろうか。魏誌倭人伝の耶馬台国の所在地論争や高松塚古墳の壁画の発見がマスコミを騒がせたころである。現在も衰えを見せない古代史ブームもちょうどこの頃から始まったと思われる。この古代史ブームの到来には終戦という出来事が大きくかかわっている。周知のとおり、終戦と同時に皇国史観が完全に崩壊し、それに代わって渡来人史観が関連学会を支配していった。日本の歴史の真実を知る快感とスリルが専門家ばかりでなく多くの一般人の心を虜にした。また、高度成長期の列島改造も古代史ブーム作りに一役かってきた。旺盛な建設工事がきっかけとなって発見された重要遺跡は数え切れないほどある。いまでも、年に数千件の遺跡発掘報告があるという。
古代社会は、ゆっくりとしたペースではあるが一種の高度成長期を体験したといえる。農地、運河、古墳、都城などの建設によって人口と生産性が急速に拡大していったからである。この古代を戦後の高度成長期に再び掘り起こして、古代史ブームを惹きおこしたことは歴史の皮肉でもあり愉快である。
ARPAネットに脱帽
2月1日に、年一度の洛友会本部の役員会に出席するため久しぶりに京都に出かけた。その日夜遅く帰宅してみると、スペースシャトル・コロンビアの空中分解事故のニュースが流れはじめたところであった。画面にはヒューストンの管制センターの悲痛な表情が頻々と映しだされていた。富士通入社9年目の'69年の暮に初めて米国に出張したことが思いだされた。この年の7月にアポロ11号が打ち上げられ、人類史上初めて月面に上陸を果たした。ヒューストンのNASAセンターには、何台ものIBM社の最高速コンピュータが誇らしげに並んでいた。そして、この年は後年インターネット元年として回顧される記念すべき年でもあった。
その頃、米国防省は軍事情報の一極集中を避けるための新しい通信システムの研究開発を進めていた。そして、この年の秋には、有名なARPAネットが西海岸のいくつかの大学の計算センターで動き出していた。簡単に言えば、複数のコンピュータを網目状につないで好きなコンピュータを自在に呼び出せるようにしたものだ。そして、このネットワークが自律的に繁殖できる性質を備えている点が斬新であった。後年のインターネットを支える基本原理の一部である。訪米中に訪問した大学で、ARPAネットの動作原理や操作方法について物めずらしく見聞したものだ。しかし、この技術の本質や将来の可能性を見通すことなど望むべくもなかった。
ともあれ、インターネットは今や不可欠の社会インフラとして定着した。ここ数年の驚異的な普及ぶりがこのインフラの優秀性の何よりの証拠である。コンピュータの歴史のなかで、知識を吸収したり自己を表現するといった人間のもっとも素朴な願望をこれほどスマートな方法で満たしてくれたことはかってなかった。大げさに言えば、フォンノイマン型コンピュータの発明に匹敵するような革新的な出来事といってもよいのではないか。30数年前に、現在のインターネット文化の源流とも言うべきARPAネットの基本原理を考案した米国技術陣に改めて脱帽せざるをえない。
元祖エンジニアリング集団
太秦の広隆寺には有名な新羅伝来の弥勒菩薩がある。国宝第1号の名に恥じない逸品である。近くには、木島神社(養蚕神)や大酒神社(芸能神)などもあって楽しい。周知のとおり、太秦は古代秦氏ゆかりの地である。5世紀頃に朝鮮半島から先進的な文化と技術をたずさえて多くの渡来人がやってきた。秦氏はその中でも最大規模の殖産的氏族グループに成長していった。正倉院に残っている戸籍資料や当時の歴史書などに出てくる人名を調べてみると、秦氏とその係累が圧倒的な割合を占めるという。このことからも秦氏の繁栄ぶりを伺い知ることができる。
秦氏は他の氏族と同様あらゆる分野で活躍をした。しかし、最大の強みは採鉱と鍛冶の技術に長けていたことである。言わば、当時の基幹産業を握っていたわけである。農具・武具の生産や開拓・灌漑・治水などの分野で主導権を握り急速に各地に進出していったものであろう。その足跡は秦・旗・波多・羽田等々の地名や人名に色濃く残っている。ちなみに、八幡神社と稲荷神社は両方で日本の神社の半数を占めるほどに広がっているが、宇佐八幡や伏見稲荷で古代秦氏の祖先神を祭ったのが始まりである。
さて、東大寺の大仏造営には豊前や河内の秦氏の技術力が不可欠であったらしい。また、平安京の建設には、山城秦氏の財力と政治力が大いにものをいったにちがいない。当時の民衆の度肝をぬくようなこれらの巨大プロジェクトはいずれも秦氏の独壇場だったのではないか。古代秦氏グループはまさに元祖エンジニアリング集団であった。渡来人が活躍した古代社会は開放性と開拓精神に満ちあふれていた。そして、我々はこのような良い意味での渡来人的風土を、1000年後の現代に活かしきれているだろうか。舶来崇拝的な安易な考え方だけを引きずっていはしないだろうか。最近の関連業界の閉塞状況に照らしてみても、考えさせられるところである。
ルーツを探る楽しみ
日本人は実に祭りが好きだ。全国には数え切れないほどの祭りがある。祭りは神を奉ることに由来しており、昔から神社と里人によって伝承されてきた。近年は商業化の影響で山車や神輿が派手になりがちである。祭りの古い姿が失われないことを願ってやまない。
さて、5世紀頃の各地の古墳から、腰に鈴鏡をぶらさげた巫女埴輪や太鼓・笛などをもった埴輪が出ている。古墳の墓前で祖先の祭りをやっていたものであろう。神社や祭りの起源に深くかかわっていると考えられる。神社で鈴を振りながら舞う巫女舞は古代高句麗や旧満州あたりで発祥した北方シャーマニズムの流れをくむという。韓国の巫堂(ムーダン)による神がかりの祭りも巫女舞を彷彿とさせるものがある。一方、祭りに欠かせないのが神楽舞である。この神楽舞によく登場するのが鼻高面(天狗面)である。この面相は異様というほかないが、当初は高い鼻というよりは巨大な鼻であったらしい。そして、この巨大鼻のモデルは、奈良時代に唐から伝わった舞台芸能・伎楽にでてくるシルクロード系民族の仮面である。その後、中世の山岳宗教の影響などを受けながら現在のような姿に変わっていった。といった具合で、日本文化のルーツを探る楽しみは尽きることがない。
愛読書の一つに金達寿(キムタルス)著「日本の中の朝鮮文化」シリーズがある。渡来人が残した遺跡に注目しながら、20年余の踏査の結果を紀行文風に記録したものである。国内の朝鮮文化の痕跡の多さに驚かされる。著者の手にかかると日本中朝鮮だらけの観がある。さて、書店を覗いてみると、古代史関係の出版物の多さは相変わらずである。しかし、インターネットの急激な普及で状況が変わってきた。自治体や関連機関のホームページには、地元の歴史や民俗関係の情報が豊富なカラー写真とともに満載されている。遺跡発掘の最新トピックスも即座にネット上で公開される。古代史ファンにとっては涙のでるほどありがたいことである。「足」と「書籍」と「ネット」を賢く使いわける時代がやってきた。
おわりに
洛友会においても、インターネットを利用した会務の電子化が進んでいる。会務の効率化のためには、本格的な電子化に移行するのも一案である。しかし、種々のアンケート結果によると、約30%の会員には抵抗感があるようである。そして、悩ましいことに、この抵抗層に大変熱心な当会の理解者が多いと推測される。一方、会報1月号にある近藤会長の巻頭言によると、人間の平均寿命はますます伸びるとのことであった。30%という数字が減るのを待っているのは賢明ではないようだ。また、電子化を進めすぎると別の問題も出てくる。名簿広告による寄付集めが難しくなりそうだし、郵便で受けとる会報の触感も味わえなくなるかも知れない。当会のインターネット化は充分な時間をかけて慎重に進めるしかなさそうである。
幸運にも、洛友会50周年の節目の年に東京支部長を勤めさせてもらった。去る5月の年次総会で無事退任することができて肩の荷を下ろしたところである。その反動もあって、いささか脱線調の文面になったことをお許しねがいたい。今後は、一会員の立場で当会の将来を見まもっていくつもりである。在任中、本部および支部の多くのかたがたに格別なご支援とご協力をいただいた。深い謝意を表して筆をおくこととする。
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