通信のNGO --- BHNを語る
池上文夫(昭22年卒)
《まえがき》
NGOと言えば普通は若者達を連想するが、BHNは中高年の定年組が多い一寸変わったNGOである。理事会や総会の出席者は殆どスーツ姿、「こんなNGO見たこと無い」と誰かが言っていた。
1992年、元電電公社OBや通信関係企業の有志が集い、情報通信でBasic Human Needsに貢献しようと設立された。正式名称は「特定非営利活動法人『BHNテレコム支援協議会』」、通称は『BHN』。英文名『BHN
Association』。
ではBasic Human Needsとは何か? 最もbasicなものは生命だから、先ずは医療活動となる。
「BHN」は2002年10周年を迎えた。その間、筆者は殆ど役に立たなかったが、メンバー達は目覚しい仕事を達成してきた。その中で見たものを洛友会の皆さんに紹介したい。電気の技術者が、技術を別の角度から眺めた時に何を感じるか、をお伝えしたい。
《BHNに想うこと》
卒業後、逓信省-電電公社通研-京大-拓殖大学。電波と通信の研究に明け暮れた50年、「技術馬鹿」と自ら心得ていたが、「BHN」で「とんでもない馬鹿」と気付いた。先刻承知でもやはり気になる。
工学の技術者は世の中に役立ついい技術・システムの創造に賭ける。いいシステムとは「新しい」「最高のパフォーマンス」を意味する。「世に役立つ」も重要だが「新しい」「最高」が特に重要である。何故なら「既存の」「低い」なら誰でもできるという誇り(あるいは驕り?)があるからである。
誇り高き技術者の努力で、日本の通信は世界最高に伍した。他方、世界人口の80%以上が電話を渇望し、彼等に通信を提供する使命が我々にあることも知っている。しかし人間は知るだけでは動かず、心に強く何かを感じた時に、初めて自ら考えて行動に移す。
ある病院に急患が入った。医師は早急の外科手術が必要と判断し外科医を呼ばせたが、病院の電話は古くて使えない。看護婦は外科医を探して病院中を駆け回る。漸く外科医が手術室に駆けつけたが、患者は手遅れで亡くなった。もし電話があれば患者は死を逃れたかも知れない。古い通信でも、それを得た人々の喜びや感謝は想像を遥かに越える。恥ずかしながらこの「馬鹿」は、BHNで漸くこれに気が付いた。
現役の技術者は「新しい」「最高」を追求し、途上国が渇望する「既存の」への興味は薄いだろうが、中高年や定年組は彼の「技術」が世の中に役立てば満足を感じるだろう。これは良い悪いではなく、人生観/技術観に関わる。
技術を渇望する無数の人々に応え得る道がある。そして「ぬるま湯」の日本でも、NGOは感動を体験する機会を与えてくれる。
《BHNの構成と運営》
BHNの役員には、元電電公社、通信関係企業・団体、医療関係、大学関係、のOBと現役、技術系と事務系を含む。洛友会会員では岩噌弘三氏(昭28)(元日本ITU協会専務理事)が理事で活躍中。
法人会員はNTTグループ会社、IT関係企業・団体など64社、個人会員686名。(2003年3月現在)
過去11年間の総事業費は約5億円(現物支給を除く)。この経費は会員の会費、各種補助金(WHO、ボランティア貯金、草の根無償資金、電気通信普及財団、企業の寄付金など)により賄われた。
《BHNの特徴》
最大の特色は、日本では勿論、世界でも希少な、通信を基盤とするNGOという点にある。通信の専門家集団をもち、支援企業を背景に適切な設備を提供する能力は一般NGOでは不可能に近い。
BHNは医療関係専門家も含み、通信と医療の総合的な対応も可能で、地域の医療活動が全面的にBHNに依存する場合もある。
BHNには、現役時代に国際的活動や組織の運営に慣れた文系・理系の人材がいる。Needsの調査、プロジェクトの検討、現地政府との打ち合せ、資金支援者との折衝等々、計画の準備。続いて計画の実施はプロ集団。困難を汗で乗り越えてプロジェクトは進む。
以上の特徴と10年を越える実績から、世界の関係者の間でBHNの評価が高まっている。
《主な支援活動の概要》
〈チェルノブイリ原発事故〉
1986年4月26日、ウクライナの北端で発生。広島の500倍の放射線量が北方に拡散し、400万人以上の住民が被災したと言われる。北隣のベラルーシは国土の70%が汚染、400の村が強制移住により廃村となった。特にゴメリ州は最大の被害を受けたとされる。
旧ソ連時代、被害は厳秘、ソ連崩壊(1991)後、各国が調査を開始。日本では長年実績のある長崎大学(山下俊一教授が中心)が現地での調査・診療に活躍していた。
事故時0〜14歳の小児の調査で、事故後10年間に甲状腺癌発生数/年が約10人から200人に激増、事故の影響が明確となる。(10年間の小児発癌総数は約900名)
BHNは、長崎大学の医師が日本で診療できるテレメディシン(遠隔医療)用に、診療の中心オブニンスク放射線医学研究所(MRRC)とモスクワ間120kmのマイクロ波回線(11GHz帯、4中継。中継機はNTTの好意支給)を建設し寄贈した(1994)。(モスクワ以遠は一般の衛星回線を利用)。
1997年インマルサットによりゴメリ診療センターと長崎大学間の直通回線を提供、更にウクライナ僻地病院と各州立病院間にインマル・システムを提供、地方の患者の遠隔医療も可能とした。
現地の医師の小児甲状腺癌手術は10年以上昔の技術で、「世界で最も美しい」ベラルーシの少女の首に、両耳から咽喉の下までU字型に醜い大きな傷跡が残る。信州大学助教授の菅谷(すげのや)昭氏は1996年その悲惨な状況を知り、大学を退職してミンスク国立癌センターに無給で奉仕、彼の開発した最新技術で執刀した。首の皺に沿う細く短いきれいな傷跡に現地の医師達は驚嘆、菅谷センセイに教えを請う。その後、ゴメリ州立腫瘍病院で医師達を指導、5年半の間に顕著な成果を上げた。その感動的な活躍はNHK-TVの『プロジェクトX』で放映された。
BHNは菅谷氏の支援と共に、後にゴメリ州立病院ー信州大学間の遠隔医療システムを提供した。
ベラルーシ、ウクライナへの検診指導、医薬品供与の支援は現在も引き続き行なわれている。
〈セミパラチンスク核実験場〉
カザフスタンのこの地区では、1949〜1987年の間に400回以上の核爆発実験が行われた。「カザフ科学アカデミー特別調査隊」が1958年作成した、周辺住民や家畜の健康状況の報告書が発見され、長崎大学山下教授等の努力で日本人によりカザフ語から日本語とロシア語に翻訳された。その後も、ソ連時代に封印された核実験と被害状況の解明が進んでいる。
キューバ危機(1962)の翌年、部分的核実験禁止条約(PTBT)が調印され,セミパラチンスクは地下核実験場となる。
広島・長崎は1発の爆弾、チェルノブイリはその数百倍の放射能だが1回の爆発。セミパラチンスクでは40年以上の間460回の核爆発が大気中と地下で繰り返され、状況を知らされない住民が放射能に長期間曝された、悲惨な被害状況が明らかになりつつある。
ソ連崩壊後カザフスタン経済は困難を極め、BHNは長崎大学の協力を得て医療支援を開始(1997)。また長崎大学ーセミパラチンスク直通衛星回線を提供(1999)。医療支援は今も継続中である。
〈ラオスの無線通信網〉
ラオスは山岳が多く、県保健局と郡病院との間の電話が無い場合や、郡病院から診療所への連絡は、郵便か徒歩連絡に依存していた。病院や診療所の設備も貧弱で、商用電源の無い所もある。ラオス政府は感染症撲滅に努めていたが、感染データの即時収集と早期の対策ができず悩んでいた。
この地形には無線通信が適する。BHNはラオス事務所(祖父江(そぶえ)健一所長(元NTT))を開設(1999)。アマチュア無線機89台を全国の医療施設に設置、JICAの27台と共に主要診療施設の無線ネットワークを構築した。
山岳地帯の道路は殆ど無舗装で雨季には交通途絶もあり、3年余にわたる祖父江氏の言語に絶する苦労に対しラオス政府から感謝状が授与された。更に現在67台の増設計画が進行中である。
ラオスの北端ルアンアムター県病院、BHNによる無線通信網の一隅で、青年海外協力隊員の助産師小野晶子さんが2年間医療指導に尽力された日誌がBHN経由メールで配信された。劣悪な環境で重症妊産婦の出産に立会う、助産師と人間の心の葛藤の凄まじさは読者に強烈な感銘を与えた。
〈アフガニスタン難民と復興〉
内戦と旱魃で難民470万人(世界全難民2200万の約21%)がいた。ジャパン・プラットフォ−ム(JPF=日本のNGO連合体。BHNを含む)は飢餓状態の難民を調査(2001)、調査団帰国直後、9・11の同時多発テロ発生。BHNは10月、イスラマバード(パキスタン)にJPFと共同事務所を設置、ペシャワール地区で活動中のJEN(日本緊急救援NGOグループ)支援のためVHF通信設備を建設した。
また、パキスタン内2つの難民キャンプで難民に衛星携帯電話の無料電話を提供、501人が利用した。この状況は日本国内のTVで放映され、久しぶりに国外の家族・親戚と電話、互いに無事を喜び涙を流す難民の姿は、日本の視聴者に強い感動を与えた。
この電話サービスで家族との電話を終えた老人が「これでもう私は今日は何も食べなくてもよい」と呟いた,と派遣隊員の報告。
これらの出来事は通信自体がBasic Human Needsそのものであることを如実に物語る。
空爆も終り平静が戻ったカブールにBHN事務所を開設(中西洋夫所長(元東芝・BHN参与)、小宮正巳次長(DoCoMo出向))
(2002)、復興支援を開始。アフガニスタンのNGO=CoAR (Coordination of Afghan Relief)にHF無線機40台寄贈、CoAR事務所と国内各地の支所および移動する車両とを結ぶ無線通信網を構築した。
現地では、日本・外国のNGOや、時には国連、日本大使館、JICAが、通信回線の確保にBHNの支援を依頼することも少なくない。
BHNはカブールと神奈川の高校生のテレビ対話に、インマルサット衛星電話とテレビ電話の通信機材を提供した(2002)。両国若者の間で平和・友人・学校などの対話、お互いの心の交流と理解が広がる。その状況は日本国内のTVで放映、現地の厳しい環境を訴えた。同様のテレビ電話交流を東京とカブールの子供達の間でも実施した。
最近、東京足立高校の生徒達はカブールの高校に贈るサッカーとバレーのボール各50個を中西氏に依託。氏は複数の高校に寄贈、高校生達が明るい顔で氏とプレイに興じたとメールは報じた。
BHNは南部中心都市カンダハルにも事務所を設置(2003)。この地区の診療所は電話が無いので、各診療所と結ぶ医療無線網のプロジェクトを現在進めている。
〈その他の支援の項目〉
モリディブ主要な島を結ぶ無線通信施設・医療機材を寄贈。血液検査・診療を支援('92-'93)。ミャンマー主要病院に院内電話システム・遠隔医療設備・医療機器・薬品を寄贈('97-'02)。カンボジャ内戦で荒廃。僻地の診療施設や救急車両との緊急無線網など寄贈('99-'02)。マレーシアサラワク州(ボルネオ島)の総合病院と奥地の病院を結ぶ遠隔医療設備を寄贈('99-'02)。ウズベキスタン救急医療センターと外科研究センター間の遠隔医療の寄贈を計画中。
〈緊急支援の実施要点〉
ホンジュラス風水害('98)寸断の電話回線復旧に光ケーブル(NTTの好意支給)等機材寄贈。トルコ大地震('99)携帯電話・衛星電話で住民に電話提供。台湾大地震('99)アマチュア無線機35台とVHF無線機50台寄贈。コソボ難民支援のAMDA(日本の医療支援NGO)に衛星電話機貸与('99)。東チモール難民の東チモール帰還を促す移動衛星TV電話を国連に贈呈('00)。インド大地震('01)JPFの難民救済活動の通信を確保し支援。
《人材育成プログラム》
発展途上国の自立には、究極的には「ヒトの支援」が重要と考え、人材育成プログラムを開始した。第1回は1998年。日常日本語、日本文化講座(海外技術者研修協会(AOTS)(通産省所管財団))と通信の専門講義を実施した。
その後毎年実施。第4回からはMulti Media University(MMU) (マレーシア)に協力を依頼。前期はMMUで2ヶ月間、日本の講師(筆者も一部担当)とMMU教員の講義。11年間本国で通信教育研修の後、後期はAOTSおよびNTT研修センターで実施した。
研修生は通信関係機関の重要ポストにある30歳台の若者が中心。3名から開始、第3回以降は定員10名、第5回までの研修生は計30名、参加国はウズベキスタン、スリランカ、バングラデッシュ、ミャンマー、マレーシア、ラオス、モンゴルの7カ国である。
《あとがき》
衆知の通り技術の目的は人類の幸福にあるが、技術者は技術の殻の中に閉じこもり易く、殻を破るには強い動機が必要である。
その方法としてNGO経由の道は興味がある。洛友会の皆さん、NGOを試して見ませんか。
活動には様々あるが、どんな小さな貢献でも、生の新情報に触れ新しい世界を発見できる。社会に役立つと同時に、自分自身をも満たして呉れます。
本稿で述べたBHNの仕事は全て多くの支援企業の後援によるものです。紙面の都合上、現物支給以外は全て企業名を省略したことをご了承下さい。
BHNについてご質問、ご関心のある方はご遠慮なく左記にご照会下さい。
(webなので住所、TEL/FAX番号は伏せさせていただきます)
池上文夫
fikegami@coral.ocn.ne.jp
BHNテレコム支援協議会
Basic@bhn.or.jp
http://www.bhn.or.jp/
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