外から見て気づくこと・価値観は制度に反映される
横山浩之(平4年卒)
私は、2000年8月12日から2001年8月11日までの1年間、マサチューセッツ工科大学(MIT)において、トラヒック理論・最適化理論・アルゴリズム理論を学ぶ機会を得た。本稿では、まず、MITへの留学を通じて実感した、教育制度の違い、および学生の意識の違いについて述べる。要点は次の通りである。@MITの教育制度は、1つの科目について、基礎から応用まで、深く掘り下げてみっちりと学習させる「システム」をきちんと設計し運営している。A参加する学生は自分の人生のグランドデザインを持ち、その一環として大学における勉強に取り組んでいる。B就職や起業といった具体的な目標と、科目選択とが完全にリンクしており、教授も学生もモチベーションが高い。C大学制度は社会制度を写す鏡であり、日米で大学のありかたが違うのは、社会の価値観の違いに根本的な理由がある。
まず、MITの電気工学・情報科学科(Cource 6-Electrical Engineering and Computer
Science; EECS)における授業の仕組みについて説明する。MITにおける1つの授業は、いわゆる「講義」に相当するレクチャ(Lecture;週2回、計120分)、問題の解法について教師と生徒が議論するレシテーション(Recitation;週1回計60
分)、および生徒が演習問題を解くことを中心に行うチュートリアル(Tutorial;週1回計60分) の3種類のクラス(週あたり計240分)から構成されており、時間数だけでも、日本の大学院における3科目分のボリュームがある。レシテーションおよびチュートリアルにおいては、クラス内での各学生のパフォーマンス、すなわち、発言の量と質が評価されるため、議論は活発であり、テンションも極めて高い。毎週、大量に課題が出題され、これをこなすだけでも休日のない生活を余儀なくされる。数式の展開(ロジック)と数学的な証明(プルーフ)を非常に重視しており、定義から着実に理論を積み上げていくことに執念を燃やす。各授業には、TA(Teaching
Assistant) がおり、分からないところは何でも質問できるし、丁寧に説明してもらえる仕組みになっている。TA
は学生がパートタイムで行っているが、彼らが実に優秀であり、いろいろな点で触発される事が多い。授業の後半は、最新の論文や事例に基づく議論を行う機会が多く、基礎から応用までをきちんとカバーするように工夫されている。教授は、授業で扱う内容の量と質に対してほとんど妥協しないため、ついて行けなくなった学生は、ただ切り捨てられるだけであるが、学生の方も必死で喰らいついていくため、予想以上に脱落者は少ない。教授も学生もMITの授業がハードであることに関しては当然視しており、そこにはある種のプライドすら感じる。
MITの教育制度は、この授業が中核を成す。修士課程だけでなく、博士課程においても、相当数の単位を取得することが要求されており、学生は大半の時間を授業のために費やしている。博士課程の学生が多数出席するような授業は、講義も議論も非常にハイレベルで、専門家同士が最先端の研究内容を巡って、解釈し、批判し、代案を出し、防衛する厳しい修練の場となっている。修士課程の間は、担当教官の研究室で研究活動を行う時間は限られているため、研究室における研究は博士課程の学生が中心となって進められている。
学生の特徴としては、何かを学ぶことに対して目的意識が極めて明確である点に注目したい。彼らは、まず、自分が将来どういう人間になりたいのかという人生のグランドデザインを持った上で、どういう分野に進むか、その分野で何をやりたいのかを検討し、実行している。何をやりたいから何をする、そのためには何をする、という目的と手段の連鎖が実にはっきりしている。もちろん、各個人の優秀さ、勤勉さ、自信・プライド・闘争心の強さにも際立った特徴はあるが、何よりも、大きな人生設計の中に大学での勉強がきちんと位置付けられている点に感心する。
こうした学生の意識や態度は、米国の求人・就職システムに合わせて形成されているようにも見える。米国での求人方法は、「○○ができる人を求む」のように、仕事に必要な具体的な能力を明示し、それに適合する人を選抜するのが普通である。端的に言えば、企業は、即戦力を要求し、仕事に対する準備が整っていない人間は相手にしないのが一般的だ。就職に当たっては、どこの大学を卒業したのかという程度の抽象論には意味がなく、自分は何を学び、何をどの程度できるのかを具体的に説明できることが要求される。より良い職に就こうとすれば、より高度な知識・技能を身に付ける必要があるし、企業をレイオフされた場合は、今のまま自分にできることを探すか、あるいは大学に通って新しい能力を身に付けるかを真剣に検討する必要がある。このように、大学は、学問の研究をする場所というだけでなく、就職に必要な具体的な能力を獲得し、それを証明してもらう場所でもあるのだ。就職を巡る学生間の競争も激しく、学業成績(Grade
Point Average, GPA) の0.1ポイントの違いが就職の成否を左右する。
これを、日本の大学と比べれば、その違いは歴然である。よく、日本の学生は勉強しないで遊んでばかりいると批判されるが、その卒業生を受け入れる社会の方は、大学生が学業に励むことを、本当に望んでいるのだろうか。日本の企業が学生に求めるのは、あくまで素材としての優秀さであって、具体的な学業の成果ではない。教室や図書館や研究室での活動よりも、むしろ、グランドや繁華街や海外の観光地で過ごした時間の方を重視している企業が多いのではないか。近年、大学院大学を中心とする新しい大学制度が急速に整備されているが、企業側が、学生を評価する際の判断基準を変えない限り、制度だけ変えても学生にとっては虚しいだけだと思う。結局、大学制度は社会制度を写す鏡であり、日米で大学のありかたが違うのは、社会を維持している基本的な価値観が違うことに帰着されるように思われる。
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