振り返ってみれば 楽しかった6年間
長尾 真(昭34年卒)
1.選手交代
去る平成15年12月15日をもって、長くてまた短かった6年間の京都大学総長の職を無事辞する事が出来ました。何事も、なる時よりもやめる時のほうが難しいといわれていますが、大型計算機センター長をしたときはスーパーコンピューターを日本一の規模とし学内コンピューターネットワークも日本で最も完備したものとすることが出来たので、4年でうまくやめさせてもらいました。研究のうえでも1960年頃から始めたパターン認識・画像処理研究は郵便番号読取方式や画像処理をフィードバック処理の考え方で高い精度で意味解析できる方式を考案し、顔写真の解析を世界で最も早くやり、航空写真の解析もかなりうまく出来るようにしましたし、また多くの人達が画像処理分野の研究をやるようになりましたので、自分がこれ以上することもないだろうと思って、1975年頃から徐々にこの分野から撤退しました。そして助手になった時からずっと考え、少しずつやっておりました言語情報処理、機械翻訳の研究に集中するようになり、1980年に日本で始めての実用規模の日英・英日機械翻訳システムを作りましたが、これは日本科学技術情報センター(今日の科学技術振興機構)で改良しながら今も使ってもらっています。しかし、この分野も少しずつ研究者が増えてきましたので、徐々にその人達に譲って、1990年頃からは電子図書館の研究開発を行ってきました。そして1994年には階層的概念に基づく目次検索という新しい概念の検索方式をもつマルチメディア電子図書館を作りました。これは世界的にも最も早期の新しい概念のもので、現在京都大学付属図書館で使われております。
このように私はあることを徹底的にやった後は他の人達に譲り、退くということに意を用いてきましたので、今回の総長退任も晴れ晴れとした気持ちで向かえ、自分の前にはまた新しい世界が開けてゆくという期待感を味わっております。次々と譲ってゆくということでは、次に来るべきものは人生で最も難しいこと、すなわちこの世から消えてゆくということでありましょうが、これこそうまくやりたいものであります。
2.総長の課題
総長に選出された時には、幾つかのことを心がけました。第一は大学構成員の皆さんの意見を良く聞き、皆さんの理解を得ながら物事を進めてゆくこと、こうして大学構成員それぞれの活力を引き出し、これを支援してゆくことであります。また健康に留意して毎日気力を充実させて過ごすこと(おかげで病気もせず、一日も休みませんでした)そして京都大学の伝統を守りながら時代の転換期に即した形に舵取りをしてゆくことでありました。具体的なテーマとしての最大の課題は、それまで約10年間議論してきてどうしても決められなかった第3キャンパスの場所を大学として決定することでありました。
時代の転換期には何が起こるかわかりません。大きな危険性を孕んでいますが、また大きな可能性、チャンスもあるわけであります。そのチャンスを旨く掴んでものに出来るかどうかは、神のみぞ知る出あります。徹底的に考えた上で、これだと決断したら、迷わずにそこに全身全霊を投入することによって達成することが出来るのでしょう。失敗する事も当然ありますから、それは運を天に任すというか、神の加護を信じて進む勇気あるのみであります。
3.キャンパスの整備など
この機会に6年間を振り返ってみようと思います。まず第一に第3キャンパスとして桂御陵坂に約50ヘクタールの場所を決定し、しかもこれを運良く取得する事が出来増した。平成15年10月には全体の約3分の1の建物が完成し、工学研究科の化学系専攻と電気系専攻が移転し研究活動を開始しました。あと1,2年で次の3分の1の建物が出来上がる予定であり、工学研究科と情報学研究科の移転が全部終わって桂キャンパスが完成するのは3,4年先になるでしょう。ここにはローム株式会社と船井電機社長の寄附の建物もたつ予定で、これから工事が始まるところであります。さらに隣接地には桂イノベーションパークが建設中で、これが出来上がるといろいろと企業が入ってきて産学協力活動がさらに促進されることになるでしょう。
京都大学は百年の歴史を持っていますが、それだけに古い建物ばかりでまた非常に狭隘であることから、桂キャンパスのほかに学内のいろんなところに新しい建物をたて、また老朽化した建物の改修をすることにも努力しました。毎日のキャンパス生活を出来るだけ快適に過ごせるようキャンパスを美しくする努力も随分としました。
正門を入ったところにキャフェテラスをもうけたり、全面改修した百周年時計台記念館にはフランス料理のレストランをもうけたりし、いずれも大変好評を博しております。校舎のトイレを全面的に改修したり、学生活動のクラブハウスを改築・改修したり、グランドを整備することにも意を用いました。
4.新しい組織の展開など
大学内の新しい組織としては、情報学研究科、アジアアフリカ地域研究研究科、生命科学研究科、地域環境学堂・学舎、医療技術短期大学の廃止と医学部保健学科の新設、その他が出来ましたが、特に全国的に見てユニークなものとしては、学内措置で京都大学大学文書館と総合博物館を作ったことであります。これらは京都大学がもつ学術資料、歴史的文書や大学活動の記録等を体系的に収集保管し、研究する施設であり、京都大学ならではの内容を持っております。平成16年4月には今話題になっています法科大学院も定員200人の規模で発足いたします。
目に見えないところでは、国際交流にもいろいろと意を用いてきましたし、上海復旦大学の中に京都大学上海センターを設けましたし、その他世界各国に拠点を設け始めております。カリフォルニア大学とは実時間の授業交換を5年前から行っており、学生に大変好評です。また社会に開かれた京都大学ということで、産学協力や京都府、京都市などへの地域貢献にも力を注いできましたし、滋賀県の膳所高校には高大連携の口座を開設し、意欲的な高校生に京都大学の先生方が講義をして下さっております。文部科学省が平成14年度から始めた21世紀COE(Center
of Excellence)という競争的資金のプロジェクトには初年度東京大学よりも多くの予算を獲得することが出来ました。
特に私にとってうれしかったことは、21世紀の世界に貢献する京都大学の理念をしっかりと定めることが出来たことであります。そこでは基本的な概念として「地球社会の調和ある共存」という概念を打ち出しております。人間社会だけでなく、動植物社会や地球環境を含む地球全体を地球社会と捉え、これが調和を保ちながら共存することを目標において、京都大学のあらゆる教育研究活動をするということであります。20世紀は進歩発展という概念で進んできましたが、21世紀はそのような単純な能天気な概念ではやって行けない時代となっているという認識に立ち、「調和ある共存」ということを考え方の中心に置かねばならないということであります。
5.国立大学協会会長として
さて、学外では、国立大学を国から切り離して独立させようという国立大学の法人化が政治問題として取り上げられ始めたのが、ちょうど私が総長になった頃でありました。これが1998年有馬文部大臣のときに本格的な政治スケジュールに乗る事になりました。
これは明治の初めに日本に大学が創設され、敗戦後新制大学となって以来の根本的な大学制度の変革ということで、国立大学協会は大忙しとなりました。最初はちょうど私が委員長をしていた第1常置委員会がこれを取り扱いましたが、その後(国立大学の)設置形態検討特別委員会を作り委員長、そして国立大学協会副会長、会長として、国立大学法人法が設立するところまでずっと国立大学側の中心にいて苦労しました。その間に唐突に国立大学の統合問題も出てきました。特に平成13年4月から15年6月までの2年2ヶ月の会長時代は国立大学法人法の細部までの全てについて文部科学省と駆け引きをしなければならなかったときで、気が抜けませんでした。98ある国立大学も旧帝大のような大きなところと、単科大学や地方にある小さな大学などとでは、物の考え方、利害が必ずしも一致せず、国立大学協会として共通点を見出し、結束して政治的圧力に対抗するということは大変難しかったわけです。しかし、国立大学協会会長としては勿論のこと、京都大学総長として、また個人的にも、文部科学省に対してはかなりの圧力をかけ、曲がりなりにもこちらの考え方に近いところに持ってこれたのではないかと思っております。その結果、去る平成15年7月9日に国会を通過した国立大学法人法は、我々から見て幾つかの問題点があるにはありますが、運用次第では国立大学がより良い方向に発展してゆける枠組みに出来たことは間違いありません。ただ、これからは競争原理がいろいろな形で国立大学の活動に導入され、成果主義的立場から外部評価が行われることになり、これについては評価委員会や社会一般の学術文化に対する認識の在り様を考えると、ある種の危惧を感じざるをえません。いずれにしても、平成16年4月から発足する各国立大学法人はそれぞれの大学の自己努力によって発展して行くことが期待されているなかで、京都大学はより一層の努力をしなければなりません。
といったことで、私としては大変充実した6年間を過ごすことが出来ました。これはひとえに京都大学構成員の皆さんの支えがあって可能となったことであり、感謝をしております。
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