スーパーカミオカンデを見て思ったこと
川村 修(昭35年卒)
昨秋、スーパーカミオカンデを見る機会に恵まれた。スーパーカミオカンデはその前身であるカミオカンデを大型化したものである。
カミオカンデはもともと陽子崩壊を観測するために作られた装置である。この装置は1983年に観測を始め、2年後陽子崩壊は観測されないと言う初期の目的を達したとしたのか或いは陽子観測だけでは辛気くさいと思ったのかニュートリノも観測しようということで大改造を行った。その直後、大マゼラン星雲で起きた超新星爆発で飛び出したニュートリノのラッシュを捕まえた。この11個のニュートリノのラッシュの観測で小柴教授はノーベル賞を貰った。小柴教授の言う運も努力の内だが、何十年に一度の現象に装置が出来たとたんに出会うなどと言うことは、事故発生に関するハインリッヒの法則どころではない。将に僥倖である。
これに味を占めたのかどうか、1996年にカミオカンデの10数倍の観測能力を持つスーパーカミオカンデを100億円かけて作った。場所は岐阜県の富山県との県境近くにある三井金属鉱業神岡鉱業所の地下1,000メートル。因みにこの神岡鉱山はここから流れ出たカドミュームが昔下流の神通川流域にイタイイタイ病を惹き起こしたことで悪名高かった所である。勿論今はそんなことはない。スーパーカミオカンデは直径40m×高さ40mの円筒に5万トンの純水を満たし、周囲、上下に直径50cmの光電子増倍管11,000本をギッシリ並べたものである。因みに光電子増倍管の値段は1本30万円である。
数年前、11,000本の光電予増倍管のうちほぼ半分の5,000本が割れた。今は残りの6,000本を再配置して使っているそうだ。原因は、最初1本が割れ後は雪崩現象で破損が拡大したことは分かったが、最初の1本が割れた原因は分かっていないそうである。残った6,000本には波及事故にあわないようにカバーをつけて一件落着している。何故最初の一本が割れたのか、光電子増倍管は全部水の中に浸かっているので重量的なストレスは小さい筈。地震は無かったという。この不可思議な現象の原因をトコトン追求していたならば、もう一つのノーベル賞のネタに出会っていたかも知れないのに。素粒子の振る舞いには何十年に一度というチャンスに賭ける心構えが出来ているのに、放電管という普通の物の故障の原因にはロクに関心を示さないという心構えは訝しい。視野の狭さを感じたことである。
スーパーカミオカンデには外国勢を含めて常時150人の学究が居て、3交替で地下に詰めている。モニター画面を見せて貰ったが、スーパーカミオカンデの内周を横に引き延ばした横長の面、上下の内面を表す2つの楕円面の何れにも赤、黄、緑、青などいろいろな色の粒が無数に光っている。これらは総て外来雑音だそうである。何時起こるか分からない、しかし科学史に名が残る現象に期待を掛けて150人もの人が自分の人生を賭けるインセンティブはなんなのであろうか。何十年に一回と言えば確率的には150人の殆どの人が何も発見出来ずに人生を終わることになるのだが。壮大な夢か、ロマンか。
もう一年も前になるか、筑波にある高エネルギー加速器で作ったニュートリノを250km離れたここスーパーカミオカンデを狙って飛ばして、ニュートリノは質量を持つことを証明したと新聞が報じた。その記事を読んで何かやれやれと感じたことを記憶している。それまではニュートリノは質量を持たないとされていたのである。我々一般人は「質量不滅の法則」を習って育ち、そのせいで質量のない物が動くと言われると、そんな馬鹿な幽霊でもあるまいしと一笑に付したくなるからである。質量不滅の法則と言えば、もう一つ日頃からコッソリ一笑に付していることがある。宇宙生成に関するイギリスの宇宙物理学者ホーキング博士のあの"ビッグバン"である。博士は、宇宙がいまも膨張を続けていることから帰納して、"宇宙は一点が爆発して出来た"と唱えている。この説は広く受け入れられているのだが、小生は無限小の一点に無限大の質量があり得る筈がないと眉に唾しているのである。アインシュタインはとっくの昔に質量はエネルギーの塊だと式で示しているし、最近では質量を専門に受け持つヒッグス粒子なる物を提唱している学者もいるので、宇宙物理学者や素粒子物理学者は質量不滅の法則などナンセンスと思っているのであろう。
日本の著名な宇宙物理学者によると、宇宙の99%は"ダークマター"と呼ばれる正体不明の物質で満たされており、これの解明がこれからの課題である。ということは自然界の1%しか未だ解明されていない。大昔デカルトは、科学には形而上学と形而下学があるが、形而上学は手が付け難いから先ず形而下学から始めるがよかろうと言ったとかで今自然科学が全盛なのだが、デカルトから何百年も経って未だ1%しか解明されていない状況ならば、精神領域に本格的に手が付けられるのは何時のことかと思うのである。
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