私の道楽
増岡 健一(昭和21年卒)
「ご趣味は何ですか」と聞かれると「合唱です」と答える。忘れ得ぬ第一回の感動。福岡3000人の「第九」。一期一会、人との出会い、別れ、様々な人間模様。昭和62年1月のことであった。それま では謡曲40年、小唄20年の邦楽が趣味と言えるもので、謡いは教室在学中に記憶は確かではないが、吉田の○○会館で観世の手解きを受け、社会に出て師匠についたもの、小唄も30年代の所謂「三ゴ」の波で仕事上半強制ではじめ名取となり続いていた。前記の演奏会の練習期間の途中で、音楽好きの部下から「男声」が足りないのでと勧誘を受け、洋楽は小学校以来やっていないので、お玉杓子は駄目と固辞したが、何とか歌えるようにしてくれるそうですの言葉に重い腰を挙げて参加したのが運のつき。シラーの詩にヴェートーベンが晩年の力をこめて曲をつけた「交響曲第九番・歓喜に寄せて」である。ドイツ語には殆ど抵抗は無く、辞書を片手に文意もほぼ理解できたので、後はメロディと暗譜のみとなり、ゴルフの行き帰りを初めとしてあらゆる機会を捕らえテープを聞き懸命に勉強した。いよいよ本番。会場の国際センターからあふれるほどの観客。指揮者石丸寛先生の入場、拍手が静まり先生の指揮棒が降り下ろされる。第一楽章、第二楽章、ソリストの入場、第三楽章、第四楽章、いよいよ出番、バリトンの人が立ち上がる。我々も一斉に立つ。ライトが当たる。心臓が高鳴る。後はもう無我夢中、長い練習の成果を発揮するだけ。精いっぱい歌った。演奏が終わった瞬間、割れんばかりの拍手の嵐と喚声、こみあげてくる感動、胸は熱く、涙はあふれ、こんな感動は初めての体験である。なり止まぬ拍手。国際センターが揺れ動いているようであった。ヴェートーベンの偉大さ、第九の荘厳さを痛感する私であった。その時思った。戦時下の灯火管制の中、戦地へ赴く文系の友人と炬燵布団を手回しの蓄音機にかぶせ、ヴェートーベンの「運命」を聞きながら別れを告げたことを。当時は警防団の見回りがあり、洋楽の音楽を聞き付けるとたちまち敵性音楽ではといちゃもんをつけられることがあって、文句を言われないように音が外にもれないようにして、クラシックを楽しんだものであった。今おおっぴらにヴェートーベンが歌えることの喜びと平和の時代の幸せをも痛感したのであった。それだけであればよかったのだが、丁度その時「東京墨田の第九」のメンバーが多数助演にきており、翌月下旬に国技館でも例年の演奏会がある旨の情報を得た。折角覚えた「第九」を忘れない内に他流試合をこころみようと思い、幸い指揮も同じ石丸先生であり、今回の演奏の世話をした生協の企画でツアーを組んでの演奏旅行に参加をした。国技館での演奏は大鉄傘下の5000人の巨大で堂々たる場面。歌い終わった時の感動と興奮は前にも増して素晴らしいものであった。以来すっかり病み付きとなり、二回、三回と回を重ねてきた。ニューヨークのカーネギーホール、シドニーのオペラハウス、ウィーンの楽友協会ホール、ロシアのサンクトペテルブルグの音楽協会ホール、ドイツのリューネブルグ、トリアー、コブレンツ、ハンガリーのショプロンなどの「第九」もそれぞれ生涯の思い出に残る素晴らしい体験である。ドイツの公演後のツアー「ライン下り」で高校時代にネイティブのドイツ人教師に習った「ローレライ」を同乗の数人の船客とドイツ語で三番まで歌い、喝采を浴びたことも大きな思い出の一つである。かくして外国での演奏はすでに十数回、一年に二回出演したこともある。これにはひとつのオマケがあり、長年会社人間で女房をほったらかしにしていた償いの意味も多少はあり、二人が動ける間は続けたいと思っているが、今年の春ドイツのボンでツアーから離れ迷子となり、何とかホテルには帰りついたものの、同行の信頼を失っているので、すんなりとついて来るか疑問無しとしない。これにひきかえ国内の演奏は二月の「国技館墨田の第九」を初めとして、「第九」本邦初演の地である阿波の鳴門市の「第九」など年間に五〜六回の全国各地の演奏会に北は札幌、南は九州延岡までその時々の都合により延べ八十数回ステージに立っている。この場合は自分一人か、数人の福岡の有志のクループと一緒で大体二泊三日の小旅行となり、女房はついてこない。洋楽のレパートリーが「第九」一つだけではというので市内の合唱団にはいり、楽典を習い、クラシックや歌曲の混声合唱にも精を出しており、歌による福祉施設へのボランティア活動もそこそここなしている。
聞けばこの「第九」がEUの国歌に制定されたとか。すると我々はよその国の国歌を歌うことになるのであろうか。どこの国の国歌に決められようとそれは勝手だが、「第九」は人類の共通の財産なのだから、その普遍性はそのことによって、いささかもそこなわれることはないと思う。「第九」おたくの弁であるが、いずれにしても人生残り少ない貴重な時間と金を使い、追っかけよろしく東に西に動き、自己満足に耽っているのは、最早趣味というよりは道楽と言う他は無い。世の中に何の為にはなっていないと思うが、大きな声を出すこと、旅行の為に体を動かすこと、沢山の未知の人々と交流し、その輪がひろがって、毎年の年賀状(400枚)書きに苦闘していることなど、私の元気の元のひとつではないかとなぐさめている次第。題して我が道楽記のお粗末である。
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