教室だより(3)
洛友会会報 217号


定年退職にあたり

吉川 潔(推薦会員)


 この3月末をもちまして京都大学を定年退職致しました。 定年にあたり洛友会事務局から洛友会報7月号に定年の挨拶をご掲載いただけるとのご連絡をいただき、大変恐縮いたしておりますとともにありがたく思っております。
 学生時代も含めますと実に45年間京都大学に御世話になり、特に電気系教室には35年間もの長い間ひとかたならぬお世話になりました。おかげさまで、この間、教育・研究におきまして実に充実した人生を送ることができ、これも、ひとえに、皆様方からいだきました格別のご高配のお陰と厚く御礼申し上げる次第です。
 電気系教室とのつながりは、京都大学大学院工学研究科原子核工学専攻博士課程を単位取得修了後、昭和47年1月原子エネルギー研究所に奉職し、粒子線工学研究部門 故服部嘉雄先生のもとで助手としてMHD発電の研究に従事して以来で、実に35年もの長きになります。
 当時は原子力エネルギー利用の黎明期で、様々な先端的研究が世界的に行われていました。その中で、1000℃という高温ヘリウムガス生成を目的に高温ガス炉の研究が盛んで、その利用も含めて、世界的に非平衡電離MHD発電の研究が精力的に行われていました。その特徴は、電子がアルゴンやヘリウムなどの希ガスと衝突した場合、電子エネルギー損失が極めて少ないことを利用して、ガス温度は1000℃程度でも、電子温度をジュール熱で2,000〜3,000℃に保ち、電気導電率を熱平衡時より大幅に増加させてMHD発電機内部抵抗を小さくし、高性能、高効率発電を実現しようとする点です。
 当時服部研究室には、高性能のプラズマトーチと強力な電磁石が設備されていました。また研究仲間に、教務技官の故督寿之氏(元エネルギー理工学研究所助手)、並びに田中大二郎氏(新居浜高専名誉教授)という大ベテランがおられ、この2人のおかげで実験や理論解析を大変迅速に遂行することができました。また、実験では大量のアルゴンガスを消費しましたが、その消耗品費などの研究費は故服部先生がすべて段取りされ、私は全く心配なしに好きなだけ研究をさせてもらうことができました。現在のように毎年1%程度削減される国からの運営費交付金(昔の校費相当)を考えますと、隔世の感がしますし、ほんとに助手時代が一番恵まれていたなとつくづく思います。
 その後核融合における直接発電に大きな興味を持つに至り、特にミラー型核融合で発生する高エネルギー荷電粒子からの直接発電研究で当時世界の最先端の研究を行っていたカリフォルニア大学ローレンスリバモア研究所(LLL: Laurence Livermore Laboratory、当時は“国立“の名前がなかった)に、幸運にも、留学する機会に恵まれ、昭和53年10月家族共々、サンフランシスコから車で約1時間の乾燥地帯にあるリバモアに参りました。 
 思えば、当時研究室にはたくさんの学生がおり、その指導も大変でしたのに、快く留学をお許しいただいた故服部先生始め研究室の皆様方のご寛容さには今更ながら大変ありがたく思っております。
 LLLは1マイル四方の広大な敷地にあり、元々は海軍基地で太平洋戦争後転用したものです。なぜ、こんな砂漠のような所にそれも海軍基地だったのかと大変興味があったわけですが、聞くところによりますと、真珠湾攻撃のあと、バークレーの隣のオークランドにある海軍基地への攻撃の可能性も排除できないという懸念から、基地の一部機能を内陸のリバモアバレーに移転させたそうです。そのため私が滞在した当時もかまぼこ兵舎を転用した建物が数多くありました。私の居室も時代がかった木造の建屋の1階でしたが、乾燥気候のためか建物の老朽化が遅く、火事さえ出さねばペンキを塗リ、エアコンを設備するだけで結構快適な空間となっていました。
 当時、リバモアは軍事研究を行っているセクションがあり、そこには私のような非米国籍の者は入れず、私の携帯しているレッドバッジとは異なるグリーンバッジの人だけが銃を持った守衛の厳重なチェックでゾーンへの入域を許可されていました。私は、短期の外国人研究者も参加していた核融合エネルギープロジェクトに属していましたので、特にClassifyされた所とは没交渉でその点は気楽でした。また、生活するに最低必要な給料を、それも連邦税免除の特典付き(日米の取り決め)で米国エネルギー省からいただいていましたので、礼儀として、いつも給料日には米国旗に敬意を表しておりました。実際、私のように、働くのではなく、勉強に来たいわば“研究者もどき(?)”にまで、このような機会を与えてくれたアメリカの懐の深さには心から感銘をうけました。その後ミラー型核融合研究が中止となった事実からして、リバモアでの核融合研究がもっとも盛んなよき時代にたまたま遭遇できたおかげと思っております。
 研究所内の掲示板にはいろいろな紙が掲示されていましたが、時折Job Openingのポスターが掲載されていました。しかしその中には、給料欄はOpenと記載されているものが数多くあり、これは正直大変な驚きでしたが、同時に経済性とは無縁(?)の軍事研究の特殊性を垣間見た気がしました。
 洛友会会員皆様の中にはリバモアを訪問された方も多いと思いますが、約30年前のリバモアバレーは、現在のそこかしこに大規模な住宅街が建設されている状況とは全く異なり、わずかの草しか生えていない丘陵と灌漑システムを備えた大規模なブドウ畑(Wente Brothersが有名)に取り囲まれて、LLL研究所と小規模なリバモア市の住宅街があり、郊外は乾燥に強いクルミやオーク、ユーカリの木々が所々に茂っているきわめてのどかな丘陵地帯で、野ウサギや、野生の鹿がたくさんいました。LLLのHousing Officeの紹介で、外国出張中のLLLの研究者の家、それも“American Dream”ともいえるような1エーカー(1200坪)の家を借りることができましたのは大変幸運でした。庭には、イチゴ、サクランボ、ブドウ、イチジク、リンゴ、なし、等がたくさん植えられており、1年間の滞在の間、家族共々大いに果物を通して季節を堪能できましたことは大変楽しい思い出となりました。
 留学前、諸先輩から、いろいろ留学の心得を教わりましたが、そのうち特に、「できるだけよき友人をたくさん作ること」、という助言がありました。それを実行するため、ほぼ毎週金曜日の夜、同僚や、秘書さん、あるいは管理職の偉いさんなどをお招きし、すき焼きパーティを開くことにしました。当初近くにある一番大きいスーパーマーケットSafewayならすき焼き用肉はあるだろうと簡単に考えていたのですが、いざ行ってみると、照り焼き用肉はあっても、すき焼き用は皆目ありませんでした。サンフランシスコやバークレーにいけばあるにはあるのですが遠いですし、そこで、Safewayのブッチャーを指導(鼓舞?)して、すき焼き用肉を調製してもらうことにしました。
 “リバモアはラボのおかげで世界的に知られている。そこにあるSafewayもより国際的になるべきである。すき焼きは日本の代表的な料理で、また国際的にも知られている。そこですき焼き用肉を作ってほしい。店頭の照り焼き用肉より、はるかに薄くLike paperのようにしてほしい”と頼み込んだわけです。そういうと、ブッチャーは“OK”といとも簡単に答えてくれましたが、翌日受け取りにいったところ、くちゃくちゃの、いわゆる日本でいう、そいだ肉の集まりという感じで、味はともかく、およそすき焼きを食べている感じはありませんでした。私も、どのようにしたら、あのように見事に紙のように薄くできるのか知りませんでしたので、“ともかく何でもトライしてがんばってくれ!”といいつつ、“前回よりmuch better!!”なんていう無責任な発言を繰り返しながらも、鼓舞だけはし続けました。2ヶ月ほどの間は、お客さんにいいわけを言いながら“すき焼きもどき”を召し上がっていただきましたが、ある日電話で注文したら、“やり方がわかったから今回のは満足してもらえる!”とえらく、興奮した声が電話の向こうから聞こえました。半信半疑で取りに行きましたところ、見事なすき焼き用肉が包んであり、“いったいどうしたのか?”と聞きましたら“Chilledしてからスライスした”とのことでした。以来、“Yoshikawa, sukiyaki-beef 5 pounds”と電話して、夕方Rib-eye steakのすき焼き用肉を取りに行くだけで日本と変わらない美味なすき焼きを、これまたおいしいリバモアワイン共々堪能でき、自分なりに、大いに国際貢献ができたのではと自負しております。実際、1年後リバモアからバークレーに移る折り自宅で送別会を開きましたが、多くの方々に参加していただき、先輩からの助言は見事達成できたのではないかと思っております。現在も、その折の友人達とは交流がありますが、私どもにとって彼らは大切な生涯の財産でもあります。
 さて、昭和54年10月、バークレーの丘の上にあるローレンスバークレー研究所(LBL)に移り、主としてプラズマ加熱用中性粒子入射装置におけるビームダンプの研究をし、1年半の米国滞在を終えて昭和55年3月大学に戻りました。
 あちらに行く前はよくわからなかったのですが、大学に戻って初めてより具体的に彼我の特徴が見えてきました。
 当然私が滞在したLLLやLBLといった研究一筋の研究所と学生の教育を含む大学(UCBや京都大学)での研究とでは、本質的に比較することは無理ですが、あえて申せば、こと研究については、LLLやLBLでの1年間は大学での10年間に匹敵するなあ、というのがそのときの実感でした。これらの研究所では、管理、企画、運営、研究、研究支援の分業がきわめて整然となされており、それぞれが自分にもっとも適している分野で最大の活動ができるシステムとなっている、というのが大きな理由です。
 翻って、法人化後の京都大学において、大学人が、なによりもまず、より生き生きした教育・研究活動を行えるようにするためには、(その結果として、自動的に高い評価となる)、従来の、「先生は立派(?)だから、教育でも、研究でも、さらには管理運営でも、すべて百点満点でこなせるはずだ(!?)」という、誤解(妄想)をさっぱり捨て去り、教員自身がもっとも適しているという分野を担当し、そこで最大の能力を発揮することが重要ではないかと思います。その際、貢献する分野間での流動性も担保しつつ、給与体系や、昇任基準など、きめ細かく配慮して、教員が十分に貢献すれば、十分に評価され、十分な待遇も得られる、というシステムにすることが必須ではないかと考えています。これは事務方にも同じことが言えます。(もっとも、これはすでに企業で行っておられることと思いますが・・。)
 以上、留学時代のとりとめもないお話になりましたが、最後を締めくくるにあたり、故服部先生が還暦を迎えられた年に大きな病を得られ大量の輸血用血液が必要になりました時、電気系教室の皆様方が全力を挙げてその確保に筆舌に尽くせぬご尽力を賜りましたことは終生忘れることのない出来事です。当時の部門助教授としてこの場をお借りしまして改めて厚く御礼申し上げる次第です。
 私事ですが、この四月からは、新設されました京都大学研究企画支援室(日本イタリア京都会館2階)に勤務し、さまざまな研究企画のお手伝いを始めております。本部の近くですので是非ともお立ち寄りください。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。長い間誠にありがとうございました。

    平成19年6月20日

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