大嶋幸一さんを悼む
西台 惇(昭32年卒)
思いがけないアクシデントから3年のご病床を経て、私の敬愛する大嶋さんは逝ってしまわれました。
普通ならば、追悼文を書かせていただくには米寿を迎えられた大嶋さんと私との年齢が離れすぎています。日頃のお付き合いをさせて頂くにはこの年差は緊張する、気を張る間柄となるからです。
私の場合、日新電機への入社以来50年、常務取締役で居られたときも、副社長で居られたときも、役職名をつけてお呼びした記憶はあまりなく、大先輩であられるにも拘わらず、つい気安く「大嶋さん」と呼んでしまう雰囲気をかもし出されるお人柄でした。
人にも組織にもさりげない気配りをされるところから、洛友会においても平成17年まで12年間の永きに亘って副会長をお務め下さり、総会では必ずにこやかなお顔にお目にかかることが出来ました。
また懇親会では、ご自身で開発された健康法や明治初期の新聞記事の紹介などユニークな話題を数々提供して、雰囲気を和ませる工夫をして下さいました。
平成元年、2年には洛友会関西支部長として明石海峡クルーズや琵琶湖クルーズを企画され、船のデッキで会員の皆様とにこやかに談笑しておられたお姿を思い出します。
大嶋さんは住友電工へ入社されて2年後に、OF式コンデンサの製造を住友電工から日新電機へ移管するに伴って日新電機へ転籍され、開発途上であったOF式コンデンサを世界で最も信頼性の高い装置に仕上げるとともに、電力系統への適用の普及にも努められました。
電気学会の「電力用コンデンサ専門委員会」の委員長としての永年のご活躍の成果として、電力用コンデンサが広域の系統運用上不可欠といわれるまでの技術基盤を確立されました。
その精髄は、「系統技術者のための電力用コンデンサ」(オーム社 昭39 年)、「電力用コンデンサ」(電気書院 昭40年)に集約されています。
これらの功績をたたえて黄綬褒章(昭56年)受賞の栄誉、電気学会からは昭和60年に電力賞(昭27年の山田太三郎さんから数えて73人目)を受賞され、平成6年には電気学会名誉員(明治21年の榎本武揚から数えて128人目)に推薦されるという輝かしい生涯でありました。
工学博士の称号からは想像しにくいですが、大嶋さんは四条西洞院にある京の老舗「大嶋結納店」の旦那様でもありました。
(財)祇園祭山鉾連合会評議員、傘鉾保存会会長を永く務められ、祇園祭の運営にも一方ならぬご尽力をされました。その功績により平成12年の京都府伝統行催事功績者表彰を受けておられます。
華やかな祇園祭で四条傘鉾の巡行の先導をされる大嶋さんの裃姿は、貫禄十分で見映えのするお姿でありました。
洛友会副会長ご就任の平成5年に、くじ取式の行事で目出度く1番くじ(長刀鉾の次に巡行する垂涎のくじ番)を引き当てられ、この上なく喜んでおられたご様子は忘れられません。
更なる驚きは、その2年前(保存会会長に就任された年)にも1番を引き当てられたという強運のお方であられたことです。
7月12日、折りしも山鉾曳き初めの日に息を引き取られたのは、祇園祭への熱い思いの現われではなかったかと感じられます。
晩年になっても尚矍鑠として、大柄な体を利しての力強いゴルフで若い者を凹ましておられました。
しかし流石に80歳を過ぎるとショットの飛距離は激減されましたが、決してそれを愚痴られないのが大嶋さんでした。淡々とまたニコニコと、季節の移り変わりやパートナーとのおしゃべりを楽しみながらラウンドされる様子が目に浮かびます。
1番ホールへ向かう階段で足がすべり、激しく転倒された衝撃から回復されませんでしたのは悲しいことでありました。
大嶋さんの業界、学会ならびに祇園祭への功績はいつまでも残ることでしょう。
多彩なご活動の中、私たち後輩を暖かく包み、指導して下さった思い出は鮮明に脳裏に刻まれております。祇園祭には必ず大嶋さんを思い浮かべることでしょう。
心から御礼の言葉を添えて、ご冥福を祈ります。
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