会員寄稿(3)
洛友会会報 224号


レーザーものがたり

山本 眞吾(昭34年卒・東京支部)

 厳寒の真冬、秩父の標高876m堂平山頂、50cmの積雪の中、急造した実験用建屋で、6才年下のS君と私はあと2、3分で現れるはずの光学反射器を搭載した米国製衛星GEOSの到来を今か今かと待ち受けていた。
 気温は零下20度、午前4時、薄明にはまだ少し余裕のある時刻である。まだマイクロコンピュータのない昭和四十年代なので、前夜、隣接する東大堂平天文台作成による人工衛星予測軌道の鑽孔テープをPTR (Photo Tape Reader)にかけるが、読取回路の低温による誤動作に悩まされ、数百sのレーザー装置を載せた米国Scientific Atlanta社製の架台が時とするととんでもない方向に暴走する。
 レーザーは、真紅の6943Åのルビーレーザーであるが、2000km先の衛星まで届かせるため、回転プリズムで毎秒1回というポンピングで数十ナノ秒にエネルギーを凝縮させて発射する。間もなく現れた衛星は日の出前の太陽に照らされ、目視もできるが、約三十分かけて悠々と満天の星空を通過してゆく。
 まだ三十代で血気盛んな我々は、こうしてくる日もくる日も宿舎のベッドで目覚まし時計にたたき起こされては観測試験を重ねた。2000kmまで届かせるため、送出ビームをさらに有効に絞るための収束レンズ系、レーザーの発熱を冷却するための純水冷却装置、受信された微弱な光を集束するための直径が650mmのカセグレン構造の光学系の調整を繰り返し行い、さらに英国EMI製の光電子増倍管を常にドライアイスで冷却する必要もあった。
 しかしこの実験は当時の機器では大気の澄んだ高山の真冬にしかできず、我々は3年連続冬の秩父の山中に閉じこもる結果となった。しかも観測に適した晴天の日はなかなかやってこないのであった。


<堂平での実験機の外観、右方に移動式屋根が見える>

 当時は、レーザーの往復時間の計測に500MHzカウンターしかなかったので、メートル単位で衛星までの距離が出る程度であった。本邦初ということもあり、NHK、新聞社から取材に来たのもこのころである。
 さて、何故こういうプロジェクトに入ったかの説明が必要であるが、当時、工場として無線の次に来る新技術を暗中模索しており、日立戸塚工場無線設計の設計主任職を退役した私はたまたま通産省で補助金募集が出たことから、今なら1億くらいの予算で始めたというわけである。さらに、何故衛星測距かというと、地球上での位置関係を天体観測よりさらに高精度のものにしようという国際的な動きがあったからとしかいえない。従来はケプラーの法則を使って天体の軌道を決めてきた人類は、ここへ来て角度情報以外に距離を直接測定する新技術を手に入れたわけである。
 東京大学宇宙航空研究所、海上保安庁、東大天文台と、十数回の連絡会を経て、進めてきたこの計画も1969.6 梅雨に入る直前の晴夜、リターンが初めてとらえられた。日立評論、昭和45年4月号等にもその詳細を報告した。
 和歌山県勝浦下里は、以前から海上保安庁の水路観測所があって長年天体暦作成を目的とした天文観測が続けられてきた。昭和57年には我が国の領海確定のための測地を目的としてレーザー測距装置が初導入された。堂平観測所のプロトタイプから数十年を過ぎ、最新技術を導入した数々の改良がなされ、現在、東洋一との評価の人工衛星レーザー観測所となっている。堂平実験当初から、その開発・改良・保守に尽力し続けてきたS君は、ほぼ毎月、関東と勝浦を忙しく往復するスタッフである。
 現在のシステムは写真をご覧願うとして、原子時計を備え、関係国とネットワークでつながり、ほぼすべてがコンピュータ化され、所長を含めて4名の職員が常駐し、観測が行われている。現在はYAGレーザーが使われており、5回/秒、1GWクラスの緑色の光線を、来た方向に正確に反射するコーナーキューブという一種のプリズムを搭載した衛星に照射する。さらに不要波長をシャットアウトするフィルターで昼間の観測さえも可能となり、日に20〜30個の反射器搭載衛星の観測が実施されている。


<現在の下里水路観測所の人工衛星レーザー測距装置>

 取得データは、ILRS (International Laser Ranging Service)を通じて各国と交換するなど国際協力のもと地道な観測が連日なされている。測距精度も年々向上し、今やpオーダに至っており、o精度も目前ということで、堂平のころからすると隔世の感がある。
 昭和58年に日本の国土全体がそれまでの天体観測での位置から北西に約470mずれ、さらにそのプレートの位置は年々大陸の方に38mmずつ接近していることも判明した。地震予知にも有用なツールとなりつつある。
 こうして、この下里を日本のすべての海図の経緯度基準点、領海確定の基準点とすることとなった。また、自衛隊のC1輸送機搭載可能の可搬式レーザー測距装置が開発され、日本列島で各離島と本州との正確な位置関係もp単位で明らかにされた。
 堂平実験の当時は、アメリカのNASA、フランスのCNESの取組みが報じられていたのみで、現実に信号処理可能な反射信号が得られるものかどうか暗中模索の状況にあった。しかし努力の甲斐あって、実験開始から半年後に衛星の予測軌道上に並ぶ信号を得て、天文台関係者のお墨付きをもらったときの感動はわれわれの忘れ得ない思い出である。上記アメリカ、フランスについで世界で3番目の成功であった。
 話は少し変るが、現在システムのある南紀勝浦には補陀落(ふだらく)渡海(とかい)という不思議な風習がある。井上 靖の短編「補陀落渡海記」にも詳しいが、この熊野一帯は昔から敬虔な信仰の場であったという。私も補陀落寺に足を運んだが、この寺は住職が61歳に達すると、自発的に海岸に浮かべた小型木造和船に乗り、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。平安時代868年から江戸時代1722年まで20人実施されたという。
 船に乗せられた住職は上人といわれ、外から施錠され、箱の中に入ったら死に至るまでそこから出ることはない。渡海船には帆、櫂、櫓などの動力装置は搭載されておらず、僅かな食料を積み、出航後、伴走船から切り離された後は海流に流されて漂流するだけとなる。仏に仕える身としての一種の憧憬に似た陶酔もあったのだろうが、生命の捨て方を信仰の中に生かし、流れつく所は観音の浄土であるという。那智の名瀑といい、補陀落寺といい、由緒ある土地で私も機会あればまた訪問したいと考えている。



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