教室だより(1)
洛友会会報 225号


京大電子工学科入学からあっという間の45年

富田眞治(昭43年卒業)

 1964年に京都大学工学部電子工学科に入学し、2009年3月で早45年が経過します。この間、1986年10月から1991年3月までの4年半、九州大学総合理工学研究科教授を務めさせて頂いたが、それ以外はすべて京大でお世話になりました。教えを受けた諸先生方、同僚、学生の皆様、研究科教職員のみなさまに感謝したいと思います。平成21年3月13日には最終講義をさせて頂きましたが、230名もの方々にご出席いただきました。本稿では、最終講義と重複しますが、少し思うところを述べてみたいと思います。
 小生の研究はコンピュータのハードウェアシステム、特にマイクロプロセッサの高速化や省電力化、マルチプロセッサの並列処理などの研究が主体になっていますが、これは小学校時代における電気好きの結果である。小学校の頃には、近所の男の子供たちの多くが、電鈴(ベル)、2,3極モータ、鉱石ラジオなどを作成して遊んでいた。部品はトタン板やブリキ缶を使用し、エナメル線を購入して作成していた。昔の鉱石ラジオのレシーバは電磁石の上に鉄板が付いており、これが振動して音声がかすかに聞こえる。電池も無しに音が聞こえるというのは考えてみれば不思議である。クモの巣アンテナやアース線を作ってかすかなラジオの音声を聞いて楽しんだ。小生はさらに進んで、並3ラジオ(小学4年生頃 、真空管6C6、6ZP1、12Fを使用)、5球スーパーヘテロダインラジオ(小学6年生頃、真空管6WC5、6D6、6ZDH3A、42、80BKを使用)、トランジスタラジオ(小学6年生、神戸工業(テン) 2NJ4、東京通信工業(ソニー)の高周波トランジスタ、ミツミポリバリコンなどで構成)などを作製した。5球スーパーで6年生の時、何かの大会で金賞を受賞した。大国智夫さんという従兄(15歳くらい年長)がいて、彼が、色々と電気や道具の使い方を教えてくれた。また、両親が1Vから20Vまで出るかなりパワーのある変圧器を購入してくれたのも電気好きに拍車をかけた。また、大社町は小さな町であったが、ラジオ店が3,4軒もあり、パーツを購入できた。5球スーパーを作成しているときに、回路の修正をするため、コードを抜いた後、手を入れた途端に感電した。真空管のプレートへの配線が間違っており、平滑回路の10μFの電解コンデンサーの電荷が放電されないまま残っていたためである。これで、コンデンサーは電気を蓄めるのだ、ということが実感としてわかった。また、完全なアース線を作ったが、それと100Vの交流が親指の先とその根元に触れ、このときは鼻から煙が出たのではないか、と思われるほど、放心状態になった。足の先と親指の間で感電しておれば、死んだかもしれない。6年生の理科の時間にモータの作成というのがあって、小生がその原理を上田 清先生に代って講義した。2極モータで回転子を構成する電磁石の向きと整流子の方向を同一にするとモータはビリビリと振動し、回転しなくなることなども、生徒の前で整流子を90度動かしたりして、魔法のように教えた。いずれにしても、電気好きになる環境があったし、理科の授業もかなり高度な内容であった。感電などの実体験も今になって思うと懐かしい体験である。今日の子供にはこのような実経験のできる環境がないのが大きな問題であろう。
 小生は1964年に電子工学科に入学したが、当時「電子」、「エレクトロニクス」は未知のものとして魅惑的な光を放っていた。また、小生は1968年に修士課程に進学したが、その頃から1970年代後半にかけては、ミニコン、マイクロプロセッサ、半導体DRAM、C言語、構造化プログラミング、UNIX、ARPANET、インターネット、イーサネットとALTOワークステーション、スーパーコンピュータCRAY-1、など現在の情報システム基盤の原型が爆発的な速度で研究開発された。これは情報基盤だけではなくて、マルチメディアの世界でも坂井利之先生、堂下修司先生、長尾 真先生のグループで自然言語、画像、音声情報処理の研究が華々しくなされた。
 小生はそのような情報科学のまさに大爆発、情報が輝いていた時期に大学院学生として坂井研究室で音声合成システム、また助手として萩原 宏先生の下でコンピュータアーキテクチャの研究に没頭した。そういう魅力的な分野に自然に優秀な人材が多数集まった。大変、幸運な時期に楽しい研究ができたことを嬉しく思っています。
 研究開発で最も楽しかったのは1974年からおよそ10年かけて行ったQA-1/QA-2というコンピュータの開発である。通常のコンピュータの機械命令では命令長は32ビット程度ですが、QA-1/QA-2では160ビット、256ビット長もあり、4つの演算器、4つのメモリ、1つの分岐操作を同時に指定できた。2000年にIntelから発表され、サーバ系のマイクロプロセッサとして採用されているItaniumの原型ともいえる方式であった。これらのコンピュータは知る人ぞ知る「知られざるコンピュータ」であった。このタイプのコンピュータにVLIW(Very Long Instruction Word)方式という概念をぴったり言い表している用語を付けたのはエール大学のフィッシャーであり、1983年のことであった。我々はこの方式をComputer with Low-level Parallelismと呼んでいた。日本ではLow-levelは低級であり、またQAはQuestion Answeringの略としか見られなかった。知られざるコンピュータになった第1の理由はネーミングの拙さであった。また、コンパイル時並列性検出による機械命令レベル並列処理、パイプラインと多重演算器による時間*空間並列処理など、構造を的確に表わしうる概念の形成の面で、不十分さがあった。新しい概念の形成、互いに異なる概念の組み合わせによる様々な方式の提案など、日本人にはなかなかできない。このため、西欧での新方式の提案を受けて、それをフォローするような研究が日本では圧倒的に多い。まずはシャープな概念の形成が重要である。100日間もハードウェアのデバッグをして髪も白くなり、地獄を見た日々であったが、自らの体力の限界も知ることにもなり、若い人には「地獄の楽しさ」の経験を薦めている。
 1970年台、80年代の楽しい時代を過ぎて、今日では、研究の分野でも安定した、飽和した時代となっており、「研究のための研究」を行っているのではないか、あまり面白くない研究を強いられているのではないか、とさえ思える時代となっている。
 若者の「情報離れ」がよく言われるが、教員自身が「情報」の研究を面白いと思っているのか、がまず問われるべき大問題です。実は、先日、情報学研究科同窓会幹事の若手の先生からインタービューがあった。その質問の一つに「先生が今、22歳の修士学生であったとして、情報の研究をされますか」という質問があり、率直に、たぶん別の面白いことを探すだろう、と答えざるを得ませんでした。
 情報学の研究分野で今後とも教育研究に専念される先生、学生の皆さんには、自らが「楽しい」と思う研究をしていただき、世界に発信をしていただきたいと思う。いろいろな教育研究制度をいじるより、これがたぶん若い学生を引き付ける最も近い道かと思います。先生の背中が輝いているときに研究室にいた学生は偉くなっていると思います。
 長い間、情報学の研究分野に身をおいてきたので、情報学に特化したような話になりましたが、電気系の研究分野でも、研究分野が飽和して、次のブレークスルーが切に求められているかと思います。ここ数年、学部入試での情報系、電気系の低迷ぶりは目に余るものがあります。新しい研究の柱を立てて、大胆な改組を行うことが必要だろうと思います。
 2006年3月から2009年2月まで情報学研究科長を務めさせていただき、いろいろな改革を行ってきました。情報学研究科では、43分野の中で、今後10年で30人の教授が退職します。この絶好な改革の時機を逃してはならないと思います。小生の研究室は、小生の退職と同時に、准教授、助教、学生だれ一人いないように、文字通り「大掃除」をいたしました。どんな新しい分野に生まれ変わるのか、外から眺めています。
 「外」からといっても、少し異なった外からです。小生は定年退職後、特定拠点教授として、唯一京大内で正規の教授職(部局で称号付与された特任教授ではなく)として再度雇用していただき、物質−細胞統合システム拠点(iCeMS)で働いております。文科省が2007年10月に世界トップレベル拠点(WPI)として全国で5つの拠点を設置しました。WPIでは新しい先進的な研究領域の展開、学際領域での融合、国際化などを標榜しています。公用語は英語となっています。予算額は非常に大きいですが、外部からの厳しい評価に晒されています。iCeMSはその一つで、メゾスケール(5ナノメートルから100ナノメートル)での物理、化学、バイオの新しい科学を打ち立てようとしています。山中伸弥教授のiPS細胞の基礎研究なども包含しています。そのような従来の大学にはない、「動的」な動きをする組織から、従来の従来の「静的な」学部・大学院の在り方をじっくり見てみたいとも思っています。良さや問題点などがいろいろ出てくると思います。
 定年を迎えても、まだバタバタとしており、定年の実感はあまりありませんが、「あー少年老い易く学成り難し」、「大学に入って45年間でほんとに賢くなっただろうか」、「偶然即必然、必然即偶然」という感がするのが、本音のところです。


 

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